日本一の清流といわれている梓川の支流のひとつとして、乗鞍東面から注いでいるのが前川本谷である。「乗鞍高原三大大滝」と呼ばれる三本滝、善五郎滝、 大滝を要する小大野川のような派手さはないが、20km近くもある長い流程と、何よりも直接に3,026メートルの乗鞍山頂(剣ヶ峰)に突き上げる魅力が、我々沢屋の興味をそそらずにはいられない。
■9月22日(晴れ)
前夜のうちに番所大滝駐車場に入り仮眠。温水シャワー付のトイレが完備された贅沢な駐車場なので、乗鞍東面の遡行基地として利用できそう。
翌朝、農協のガソリンスタンドから民宿街を通り抜け、南に入る道を進み、テニスコートと室内ゲートボール場がある駐車場に停める。すぐ前には水車が回る蕎麦屋「いがや」があり、下山後の楽しみを残して遡行準備を整え、前川本谷へ下りる踏み跡を辿る。後で気づいたのだが、沢に下りるアプローチとしては、取水口施設がある踏み跡が(確認していない)ベターのようだ。何しろ我々がとったルートは最悪のアプローチだった。神社の鳥居をくぐり、転げるような急な斜面を下り、崩壊した壁に阻まれ、とうとう道がなくなりザイルを出して懸垂までする始末。結局、沢に下りるまで一時間近くを費やしてしまった。
ようやく降り立った前川本谷は、左右を崩壊した壁に囲まれ、荒涼としたゴーロが広がっていた。予想はしていたが、もし増水でもしたなら逃げ場がないようなU字の廊下帯である。水量は少ないので、飛石づたいに遡行を始める。朽ちた吊り橋を頭上に見ると、すぐに取水口。左岸から尾根に向かって道がのびている。どうやらここから入るのが正解だったようだ。
取水口を過ぎるといきなり水量が増え、流れも速くなってくる。左岸の側壁から落ちる15メートルの滝を見ながらゴーロを進む。やがて、一ノ瀬川(2万5千図には伊奈川と記載されている)が左岸から堂々とした25メートルの直瀑を落として出合ってくる。沢は相変わらずゴーロが続き、崩壊した側壁のガレに辟易しながらも遡行を続ける。
白樺橋13時15分。当初の幕営予定地だったが、思ったより早く到着したので、午後4時まで遡行を続けることをメンバーと確認する。冷たい秋風に吹かれながら、しびれるような流れをバシャバシャと進むと、本日初めての淵をもったゴルジュ。左岸をへつると、これも本日初めての釜をもった滝。2条25メートルの美瀑である。左岸の巻道から簡単に越える。しばらくゴーロが続き、林道の橋に出た。釣り師2名が糸を垂れているが、すぐ背後を無視して通り過ぎる。再び単調なゴーロとなる。沢はほとんど起伏がない乗鞍高原の真ん中を縫っているだけに、まったく飽きるほどのゴーロである。その上、林道が奥まで入り込んでいるためか、釣り師の気配を感じ、焚火の跡や釣りえさのゴミを見るとげんなりせずにはいられない。
15時15分、ミソ川との出合となり沢は直角に北へ曲がった。25分程で右から入る伊奈川との出合。本谷は薄暗く冴えない渓相となった。すでに16時を回っており、テン場を探すが適当なところが見つからず、更に遡行を続けると3段25メートルのナメ(魚止め滝)が現れた。なかなかの美瀑である。左岸からの直登、高巻きで越えると今度は右岸の側壁からスダレ状の滝が何本も落ち、いよいよ沢登りらしくなってきた。しかし、すでに夕暮れがせまっており、林道の橋が見える段丘を整地し、ようやくツエルトを張った。急いで焚き木を集め、濡れた衣類を乾かし、ホットウイスキーを胃に流し込む。夜のとばりは勢いづくかのように満天の星を散らし、焚火の炎はゆらゆらとはじけ、冷えた空気と重なり合うかのように、夜はしんしんと更けていった。
■9月23日(晴れ)
シュラフカバー2枚では寒くて何度も目が覚めた。前夜の焚き木に火を点し、熱いラーメンをすする。6時45分。遡行開始。鬱蒼とした樹林帯を縫うように流れる沢を進む。傾斜は確実に増してきている。焚火の跡が一ヶ所。どうやらここまでは釣り師が入ってきているようだ。
7時35分、6メートルのナメを落としたガンガラ沢(左俣)出合。しかし、右俣の本谷は驚くことに60メートルを超すような超美瀑の直瀑を落としているではないか。滝を取巻く壁は要塞のように圧倒的な高さで経ち、朝日に輝く飛沫には虹がかかり、神々しさを感じずにはいられない。直登はもちろん無理だが、ひと目見て高巻きも容易でないことを想像させる。地図を睨み、左岸、右岸、右岸の尾根、ガンガラ沢経由…と、あらゆる可能性を検討する。結局、右岸の泥壁を50〜60メートル程登り、急な痩せ尾根へ出て、平坦になった地点から潅木帯を右に回り込み滝上に出た。しかし、尾根上から望見できる続く35メートル直瀑についても壁に囲まれているのが見え、結果的には不本意ながら2つの大滝を連続で巻くことになった。
沢に下りると、今度はスラブを落ちる20メートルのナメ滝。これもなかなかの美瀑。左壁の中央を直登し、落口に出る。沢は傾斜が増し、スラブの岩盤に変化してきた。8メートルの滝を先頭にナメや小滝が連続し、いよいよ遡行も佳境に入ってきたようだ。もはや釣り師の痕跡どころか、人が入った気配すら感じない。あの60メートルを超す大滝から上に入ったのは、もしかしたら我々だけではないかと、密かに胸を躍らせる。
スラブ状になり、水流が乏しくなった沢をどんどん進むと、一旦、伏流となった。水筒に水を汲み歩き始めるが、再び水が復活し、ゴルジュが現れたところでとうとう水が涸れてしまった。ガレとなった沢を、汗を落としながらひたすら登る。沢幅はどんどん広がり、左岸は威圧的な側壁が続いている。振り返れば、穂高連峰と槍、常念岳がくっきり見え、ど・ピーカンの中での登高は地獄の試練のようだ。
左に高天ヶ原が見え、正面に乗鞍本峰(剣ヶ峰)が見えてくると、更に沢はガラガラになってきた。予想をしていたハイ松帯のヤブ漕ぎを避けられただけでありがたかったが、それにしても長いガレである。14時、高天ヶ原と剣ヶ峰の鞍部に出た。登山道も不明瞭で、もちろん誰もいない。長かった前川本谷はようやく終わった。充実感を味わいつつ、3,026メートルの剣ヶ峰に登る。頂上では都会の雑踏をそのまま持ってきたような混雑ぶり。とてもゆっくりしている雰囲気でもなく、握手でメンバーの健闘を称え合い早々に下山を開始する。
下山は運良く畳平でタクシーを捕まえ、車をデポした乗鞍高原へ下りた(8,000円)。のんびりと温泉に浸り、再び番所大滝の駐車場にテントを張り3日目の朝を迎えることとなった。[高橋
記]