5年目となれば、旅自体への不安感はなくなってきた。ただ、慣れと反比例して沢の難度は上がり、台湾東面のモンスターの一角をなす渓を選んだ。ドラッグ中毒がより強い刺激を求めるのと同じだろう。今までのどの沢よりもスケールが大きく、そして悪い。長さは40kmに及び、流域面積は2年前の馬太鞍渓の2倍以上。2年に分けてとプランを立てた。神様の機嫌が悪ければ敗退にちがいない。「最初から2年でと考えていれば3年かかるよ」という声もあったが、エスケープ自体が困難なこの沢。2分割しか考えなかった。今年は中間部に絶妙に位置する温泉を目指す。難渓をくぐり抜けた先の温泉だ。ストーリーは悪くない。しかし、こんな沢に行くメンバーを募ることが核心かもしれなかった。
水の対応がポイントと考え、水の切り込み隊長の近藤恭とオールラウンドに強そうなブンショウと私の3人のメンバーが決まった時点で計画が動き出した。のち、横浜の木下も加わり、4人となった。ところが、水の切り込み隊長として期待していた近藤が出発3日前にキャンセルとなり、プレッシャーは倍加されたが、行くしかなかった。
マリ(萬里)ちゃんの機嫌を損ねないですむだろうか。
いつも以上に大きな不安を抱えて、関空に着く。日本の出発は晴れが多い気がする。空港のロビーで暇つぶしに見たネットでは台湾は5日間、雨の予報。まあ、いつものシトシト雨で、大して降らないだろうとタカをくくり、機内の昼食でビールを頼んだ。
台北の空港で荘先生のお出迎え。いつも本当にありがたい。ブンショウ・キノポンと落ち合い、あわただしく電車に乗る。同行者の黄さん待つ鳳林まで4時間の旅。うたた寝程度では、長かった。
初対面の黄さんが駅まで出迎えてくれる。日に焼けた精悍な顔つきだ。沢登り経験は1泊だけ。まぁしょうがかなろう。なんせ10日間もの山行は行ける人は多くなかろう。軍隊上がりという頑強さに期待したい。ニックネームは泰山とのこと。チェックイン(3人で1000元約3500円)を済ませ、駅の近くで軽い食事。合流を祝して軽く食事と乾杯。天気はやはりイマイチのようだ。宿で最終パッキング。

入山。高砂のトラックで予定通りの地点から入渓。車も予定通り入れる。下車後、林道も順調。沢近くの崩壊点では道がなくなっていたが、ガレをそのまま下れば沢に簡単に出られた。沢の水量は遠望しただけでかなりの減水と見て取れた。水の近藤の不在がのしかかっていた私は"これは楽勝!"と口にして喜んだ。しかし、鉄砲撃ちのブンショウが「そういうのは山の神さんが聞いてるし、鉄砲撃ちの世界では口にすると叱られるんだ」とぽつり。私はそういうのが大好きなタチで、今回いつも心に念じるようになった。
泰山は大きくペースダウン。ガレなど歩き慣れない上に大きな荷物。ガレ下りの怖さもあってかなり消耗したようで、沢に降りてからも遅い。
なるっさんに竿をもっていけと言われたブンショウをあざ笑う。東面のこのあたりで魚なぞ見たことはない。釣れるわけがないと一笑に付すが、瀞に魚影があるじゃないか。う〜ん、サバイバル男が呼び込んだのか・・・。泰山を待ちついでにブンショウが早速、毛鉤を出す。何投かするとクーファが釣れた。日本の毛鉤は台湾でも通用したというのは驚いたが、うれしくもあった。泰山がばてて14時前に行動を終えた。クーファをみそ汁に放り込んが淡泊でくせなどまったくなかった。どうしても臭みいっぱいの川魚見えてしまうのだが、臭みさえも消し去る大水が出るのだろうか。降り出した雨を見ながらいい加減なことをぼんやり考えていた。
ウブなクーファをだましたその夜、鉄槌が下ったのか、"これは落書"を神様に聞かれたのか。オヤジさんの雷が落ちた。夜中、雷雨になる。

沢は増水。お怒りはまだ静まらないらしい。雨が降り続いている。濁流が昨日見えていた岩を呑んでいた。ココア増水となれば沈殿しかない。せめて午後からだけでも動きたいと欲は尽きないが、このまま増水が続けば退路さえなくなる。困ったときだけ神サマに祈る不届きものの願いをやすやすと聞いてくれなかった。今日は、増水は引かないだろうと考えるに至って、酒を飲み始めた。ふざけた態度だ。こんなことではますます怒りをかうのだが、話題はいきおい、敗退後になった。自転車旅行のハッピーな?計画を肴に飲む。溯渓をあきらめたような死んだフリ作戦が効いたのか、午後には止んだ。
数字好きのキノポンが監視担当官になるもいい加減な報告。遠巻きで見た上、水増しした報告する。「なんだよー、そのいい加減さは!」と酔っぱらいが絡んで時間をつぶしていた。ブンショウの辛口評が乱れ飛ぶ。キノポンはブタやらアザラシといわれても結構、平然。酒も一気に消費。午後から止んだおかげが、夕方には5cmぐらい引いた気がした。これなら明日は期待が持てる。

一夜明け、20cmぐらい減水したものの、濁りの残る中を遡行開始。濁った水では距離が伸びない。キノポンが積極的に飛んでいく。岩の乗っ越しで泰山が落とした石がキノポンの足先に直撃。「オウ、オウ」とオットセイ調でもだえるキノポン。落石は冗談かと思ったが、実は本気で痛かったのだ。キノポンが本性を現した。開けた河原歩きから徐々に壁が立ってくる。昼を過ぎると薄濁り状態。青い流水が白い大理石を曇りでもまぶしく引き立てる。ゴルジュが狭まり、奔流が駆けぬけ、通らずとなる。右岸をキノポンショルダーで、ブンショウがピンを軟鉄との重ね打ちでA0。あとはステミングでヒタヒタ抜けた。右岸上からゴルジュをのぞきながら進む。ガレが現れ、少しトラバースしてから下降。トラバース中に泰山が後のキノポンを気遣ってか、手がかりにしたブッシュなのに、邪魔にならないようにと折り曲げて通過。折られたブッシュにキノポンは困り顔。
午後に入り、泰山の歩くペースも落ちる。足元の悪いトラバースは苦手のようだ。出合の支流の屈曲点で予想以上の大理石ゴルジュに遮られる。川幅は2m程度か。急流で沢通しなど考えられなかった。

遅れる泰山をキノポンに任せてブンショウと2人で先に戻り、幕場探しを始める。14時過ぎで足並みがそろっていれば巻きに入れる時間と高さだが、ばてたメンバーがいてはどうしょうもない。マンマンテ(ゆっくり)の精神で泊まりとする。メンバーがそろい対岸の高巻き開始点の近くに幕場を定めてから、ブンショウと2人でロープのフィックスに行く。3mほど嫌な乗っ越しがある程度で樹林のフラットにはい上がれるようだ。フィックスをしたブンショウが降りてきた。それにしても下部でこれほどのゴルジュが出てくるとは…。翌日からはどうなるのか。夕食ができたら雨が降り出した。マリちゃんのお父さんの機嫌はまだ悪いらしい。早々に就寝。
行動開始は高巻きから。ブンショウ、泰山、榎本、キノポンの順で動き出したが、ブンショウがフィックスロープを越えるとき、異変を告げる声を出す。猛毒の青ハブが泰山のすぐそばにいたのだ。泰山が枝ではねとばし、青ハブ君は沢上の細枝にしがみついていた。
ヤブは濃くない。昨日、目星をつけておいた高巻きルートより少し上にあがりすぎる。先頭のブンショウがロープを40m近く伸ばしてフィックスするがザック付きでは大変だった。積極的にトップを行くブンショウ。いつもは私の役どころだが、攻守逆転で、今回はあとから見ることが多く、ブンショウに自然と頼る気持ちが芽生えだしていた。
きつくなった雨が恨めしかった。上がった鞍部で行く先を見下ろす。幸い雨も止んでいたが、腸のようにのたくった沢筋がガスの向こうに見え隠れしていた。降りた河原で一息つき、遡行再開。やや開けた河原だが、流れは大理石ゴルジュの鎧をまとっている。先に落ちてくる尾根で清水谷出合だとわかった。30mぐらい幅のあるゴルジュに大きな瀞があり、キノポンが泳いでルートを開く。といってもCSの足元に上がり込んだにすぎない。振り返ればこの大きな瀞が清水谷出合の流れ込みだった。厳しいゴルジュを呈しており、地形図からは想像がつかない厳しい地形だった。
CSの切れ込みは2カ所ある。増水が彫り取った乾いたU字溝と平水時でも水を落としている溝。乾いた方にブンショウがはい上がり、後に私も続いた。U字溝を進み、上を伺うと左は流れのきつい淵。右はCSがさらに覆い被さっているが、トンネルになっていて、抜けられるかもしれない。ただ、一歩間違えば水流に引き込まれ人間チョックストンになってしまいそうだ。ブンショウに細引きで確保してもらい、U字溝から足を踏み出した途端、絶妙に流れを止めていた石を蹴散らし、U字溝に少なからぬ水が流れ込み出した。慎重に足の着く石を探り当て、トンネル下から向こうに抜けた。先の可否を確認し、後続にOKを出す。私が踏み壊わしたせいで、後ろは厳しい水流シャワーとなってしまった。
第一のエスケープポイント、清水谷出合には届いたのだ。増水下の最低目標は達せた。ここまで来ればマリ家に上げてもらいたいと欲はつきない。蒔き集めは必要なく、手を伸ばせば蒔きという幕場で雨のぱらつく中、盛大なたき火で体を暖めた。泰山も結構動きが良くなってきた。

同行の泰山は日を追うごとに手際が良くなり、パッキングも私たちと変わらないほどになってきた。
奥座敷の入り口を目指して出発。しばらくすると屈曲部に大きな瀞があり、泳ぐまいと競い合うように楽しんで抜けると暗峡となっていた。大理石ゴルジュが50m以上の高さでそそり立ち、中は暗い瀞状巨大プール。入り口幅は10m程度。屈曲したゴルジュの奥はどうなってるかわからないがとりあえず2人で泳いでいく。ぎりぎり泳げる流速で、奥へ進めていく。絶妙の中継地点が2つあり、レストを入れる。ガチャも外さず、ロープなしで果敢に泳ぎ進んだブンショウがおぼれる寸前となり、あわてて前線基地に戻る。ガチャを外さなかったのがよほど堪えたらしい。
果敢にルートを開くブンショウに、ロープを取りに行ってくると言って20mほど第一中継地点に泳ぎ戻ると、キノポンは遙か後ろの岩の上で座って我々を観戦中。耐寒性の強いヤツは濡れながらでもフォロー体勢に入っとかんかいと思いながら指示を出す。第一中継地点は浸かりっぱなしなので、スタート地点に戻る。キノポンの到着を待つ時間、震えが止まらなかった。ブンショウは股から浸かったままだ。ヤツも寒かろう。ロープをつけてブンショウの所に戻ると、震えで歯の根があわない。ライジャケを渡し、ブンショウをルートに送り出す。ヤツは無事反転流に乗って対岸に這い上がる。問題はその先にCSがあるかだ。ゴルジュの最後はCSのフタというのが相場。ところが、出口にもフタはなく、通過。お怒りは解けたのか、日も差し射し始める。やや低くなるが大理石ゴルジュが続く。

ついにフタが出てきた。ツルリとした側壁と渦巻く釜に4m滝。泳いで偵察したがやはり不可能。上はそびえ立つゴルジュが続いている。左のルンゼからはバンドに上がれそうだが、懸垂なしで降りられそうには思えない。しかし、見に行くしかあるまい。100mを泳ぎ戻るなんてゴメンだ。ルンゼの抜け口に全身トゲトゲのラタン群があり、閉口する。踏んづけたとき、ラタンのとげはフェルトソールを突き抜けるんじゃないかと怖かった。小さな高巻きだったが見事にラインが続いていた。どうやら俺たちにも運が向いてきたらしい。降り立った左岸に一応、高巻きの保険を確認して、暗い屈曲したゴルジュに突っ込んでいく。巻けるとなればとりあえず安心。だが、通過できるかわからない重苦しい雰囲気にこそシビレる。マリちゃんにいじめられたいと願い続けてきたストーカーたち。マゾっけ丸出しで進んでいく。やや開けたゴルジュは20mクラスの釜と迫力ある小滝?が連続する。絵はがきに出てきそう。
萬里橋渓左俣出合の釜が一番大きくきつい流れとなっていた。昼飯にしながらルートを探る。同行者の泰山が、オレがやるでと言ってきた。先の流れのややきつそうな瀞場を越えたらいけそうだ。危険もあるまいと任せることにした。泰山が対岸にわたり、凹角に磨かれた側壁を重力に逆らい走り抜けたのだ。エリマキトカゲのように蹴り飛びながらきつい流れを越えてダイブ。予想外の行動で日本隊から大歓声が起きる。その上は15mの豪瀑。薪もほとんどなく幕場探しをかねてブンショウと奥を偵察。明日の高巻きを決めて戻る。ちくわクラスの水晶アイランドに興奮。モノにできればカミサンの10年の山行許可が取れたも同然だったのに。偵察を終え、往路を戻るとたき火のにおいが届いてきた。戻れば結構な薪があった。泰山が対岸ルンゼから集めてきたとのこと。状況を読める泰山は頼りになるメンバーになってきたのだ。

核心と予想していた上部ゴルジュにいよいよ突入だ。昨日、偵察で使った右岸をやめ、地図を信じて、左岸から小さな巻きを狙う。ここは地図通りあっさり巻け、1時間もしないうちに降り立った。いい幕場も結構あった。支流を分けたところで短い泳ぎあった。泰山が泳ぐキノポンを見て「オウ、オウ、オウ」とオットセイ調につぶやく。泰山も雰囲気が読めてきたらしい。
このあたりから一気に水が温泉臭く、岩肌もざらついてくる。左岸に暖かい温泉も出ていた。屈曲点にはおきまりのようにゴルジュとCS。右岸から小さく巻けそうと15mの細引きでとりついたがこれはミス。もう10mぐらいロープがほしかった。はっきりしたキョン道をたどり、トラバース。先にルンゼが見えるのであきらめて懸垂&偵察。結果的にはもう少し我慢してトラバースをしていればロープなしで降りられた。疲れもたまり、足が伸びなくなっているのだ。
いつ通らずとなってもおかしくないゴルジュを左右に縫うように進むと沢の流れが突如なくなったかのような錯覚を覚えた。遠近感をなくす同色の壁の中を沢は直角に曲がっていた。壁の高さは50m、最狭部は3mほどか。長さ30mぐらいの奥に10mクラスのCS直瀑。巻くしかなかった。尾根から遠望すると上部は予想通りの大ゴルジュ。高い側壁が腸の様にくねっていた。遠くほど高く狭くなっている。絶望的なゴルジュだ。巻くなら左岸を一日がかりの大巻きになるだろう。ここは降りるしかなかろう。尾根から少し下がり、キノポンたちを残して、2ピッチの懸垂で偵察。適温の温泉発見。まだ午前中だ。行動を切るわけにもいかない。高巻きとりつき点を見つけて後続にOKをだし、偵察を続ける。厚みのある大理石ゴルジュに圧倒されながら奥に巻き進む。高巻きを繰り返すにつれ、側壁はいっそうそそり立ち、急に沢幅が狭くなったところにそいつはあった。100mの圧倒的岸壁ゴルジュ入り口に衛兵のようなCS8m。流れ渦巻くスリリングな斜めフリートラバースでCS真下には入り込めるが足下は白泡。ブンショウが「やばいよなー。吸い込まれると死んでしまう」といつになく弱気の言葉。ここまで引っ張ってきたvブンショウの言葉だけに重みがあった。これは高巻きだよなと決め込んで、偵察をうち切る。この間約400mぐらいか。その距離でも偵察で2時間近くを費やしたようだ。戻って説明をし、立ちはだかるCS8mに向かった。この時、ダメもとで突破を試みようと考え出していた。半分「止めてくれー」と思いながらブンショウに告げると、「おう、ビレーしてやるよ」とのんき過ぎる返事がくる。「止めてくれるんじゃなかたんかい、危ないと言うたやん」と裏切られた気持ちにも近く、心穏やかでなかったが、やせ我慢で「一応、もう一度見直して決めるわ」と心はすっかり折れている自分が情けない。すでに滝に行き着いたときの言い訳をあれこれ考えていた。「あのクラックを本当に登り切れるのか」「時間は15時前。あきらめると言っても言い訳の通る時間だ」という消極派に飲み込まれていた。しかし、「これをやらなければ後悔するんじゃないか」「今までブンショウに頼りっぱなしの気持ちになっていたが、ここが気合いの入れどころじゃないか」という積極派も抵抗していた。
固く閉ざされた重い扉。その玄関のようなCS8mに再びまみえたとき、これなら登れそうだとなぜか思えた。初見では、あまりの威圧感にのまれたのだろう。まだ見ぬマリちゃんに近づくには、お父さんの怒気に負けてはいけないのだ。ブンショウの「こういうのって抜け口が嫌なんだよなー」という言葉もさして気にはならなかった。
ブンショウとキノポンの共同装備のカムをもらい受ける。CS下に潜り込んでスタート。挟まった石に絶対白泡に吸い込まれないビレー点が取れて一安心。フレアしたクラックにカムで人工。カムを2つ、3つと入れていったが、ここ一番のつらい体勢で、突っ込んだカムが、動かないではないか。今回の溯渓で油が抜け、動かなくなっていたのだ。この苦しい状況で使えないカムなんて鉄クズよりひどい。チクショーとパンプを感じながらカムを変えると、ブンショウがロープをギンギンに張ってくれているのがわかった。託せるビレーヤーやなと、このナイスビレーで落ち着きを取り戻し、次のカムを手にした。もちろんチェックしたのはいうまでもないが、これも動かなかった。「カムのバリエーションが少ないビンボー沢屋はこんなハンディを背負わないといかんのんだ」と妙な納得する。自分のカムならこうはならんかったかもと落ち着いていた。カムを決め、アグレッシブテストをする余裕もあった。あと1mぐらいだ。クラックは直上し、ラインは素直になってきた。右手を伸ばし、親指を落とし込んだら、手応えばっちり。が、そう甘くはない。根性を試される関門がまだあった。クラックが浅くなったところにこぶし半分ぐらいの石がはまりこんでいた。はまりこんだ石は体重を支えてくれるのか。クラック、石の形状から動かないことを信じて、そっとつかむ。手応えは悪くない。しかし、フリーの状態で絶対に落ちられないとよぎり、すぐに手放した。他を求めて手がさまよった。やっぱり、それしかなさそうだ。こぶし半分の石は無事、私の体重を支えてくれた。右手を落ち口に伸ばし、ガバを探り当てたら、マントルを返すだけだった。玄関をこじ開けたのだった。これもブンショウの励まし?のおかげだ。玄関クラックを越えたが、大ゴルジュの入り口に立ったに過ぎない。越えたことの充実感と、溯渓の戦略は別だ。時間は15時半を越えていた。喜びが急に冷えていった。左岸に厳しいが一縷の望みは託せるクラックのラインを確認し、上に向かう。おきまりのCSの蓋はなかったが、ゴルジュの狭くなったのど元に小滝と淵。唯一の弱点に見える左のワンドは白泡となり、私には突破できると思わなかった。ブンショウが「やれるんじゃないかぁ」とつぶやく。無理かもと思いながら、「頼むで」と言うしかなかった。
後続を滝の上に引き上げるがミスを犯してるかもしれない。この滝を降りることになれば半日を棒に振ることになる。すでに一日停滞しているのだ。マリちゃんのベールをはぐ博打だ。気分は軽くなかった。お父さんはかなりおっかないのだ。
ブンショウは、ガチャをそぎ落とし、ライジャケをまとい、水に入っていった。ロープは緩く流していた。ここまでくれば水もかなり減じ、ワンドには泳ぎ入れた。そこから予想通り水流に圧倒されていた。すぐ左の磨き込まれた側壁にホールドを求めていたが体力を奪われただけ。「ブンショウー、右はどうや」と怒声をかける。体を反転させる泳力がまだ残っていた。3かきで5cmという渾身の泳ぎでワンド奥に突き進んでいく。ワンド狭部につっぱりで取り付けるまであと少しだ。緩く流したロープを強く握りしめ、「行けー、あと少しやぁー」と声を出し続けていた。ついにワンド狭部に全身つっぱりで潜水艦が浮き上がるように姿を見せた。マリちゃんの部屋へと続く廊下を突破できたのだ。だが、幕場はあるように見えない。拾う神はあるもの、けなげな男どもの誠意をくみ取ってくれた。左岸ルンゼに巨大な岩小屋があったのだ。この賭はとりあえず勝たしてくれた。
しかし、ゴルジュは暗く狭さを増す一方。先は絶望的な雰囲気を醸していた。巨石を乗っ越し、飛び込みと泳ぎを交えて進む。その奥に萬里橋渓の秘密が隠されていた。胸まで浸かりながら進むが、反転流に引っ張られる。重しになったキノポンにつかまりのぞく。突破など考えもつかない豪瀑と渦巻く釜。拝む者まで出た。
冷え切った体で泳ぎ戻る。ゴルジュに許された奇跡の岩屋だ。雨も落石の心配もない。その上、薪は無限にある。苦闘し冷え切った私たちに、すべてが揃っていた。
マリちゃんの部屋には入れてはもらえなかったが、顔は拝むことができた。善戦をした6日目だった。
高巻きからスタート。快適な岩屋を後にして急なルンゼを詰める。対岸に涸れた支流とも滝ともいえないのが、左右にくねり、まるで龍が登っているかのようだった。ルンゼの詰めでブンショウがロープを出して尾根を目指すが悪いとのこと。後続は手前のバンドを大きくトラバースし、フリーで尾根に上がった。向こうに目をやると硫黄の付着した30mの温泉滝が見えるがゴルジュの先。おそらく、ゴルジュを抜けた最終目標の温泉地だろう。
心配した下降点だが、上手くルンゼがあるようだ。大事を取って15mと45mの懸垂を交えて降りる。まだゴルジュの中だ。この先は抜けられるか不安がつきまとう。ゴルジュ幅は10m程度。降りたルンゼあたりは日が差しているが、一歩踏み出せば陰。遠望した印象より悪くなく、水線通しで突破ができた。流れはきついが水量が落ちたのだ。徐々に側壁が下がりはじめ、開放感を演出する。めどが立つ、これはイタダキと思ってしまったのが見透かされたのか、直線ゴルジュ&瀞&CSのセットが登場した。
中継点が3カ所ありそうだ。1ピッチ目を台湾の泰山に行ってもらえないかとお願いした。泰山は口元を引き締めていた。20mほど瀞を泳ぐと岩があり、その上部は10mぐらいだが、流れがきつい。そこを抜き手で見事に通過。後ろから見守る日本隊から歓声があがる。セカンドにブンショウが行き、2ピッチ目の状況をつかんでもらう。突っ込もうとのサインが返ってくる。私が空身で続き、荷揚げに入る。上は7〜8mぐらいの瀞で白泡混じるきつい流れ。左の岩に上がって流心を飛び越えれば何とかなりそうだった。ここもロープをつけたままの泰山がやる気いっぱいでジャンプ&スイムで突破。ジャンプした先は足が着いたようで、見た目ほど悪くなかったがトップの緊張はかなりのものだろう。後ろのキノポンとザックを上げて最前線に集結。その間、最後の2m滝の攻め手を探ってみた。釜は深く足が届かない。3mぐらい釜で隔てられた向こうは2m巨岩が斜瀑と化している。右前方はワンド状で切れ込み、厳しい白泡ゾーン。このワンドはまったくだめだ。水流がきつすぎる。ここも泰山が「オレ、やってみる」とトップを譲らなかった。助走路はない。ジャンプのため深く足を折り曲げ、岩に向かって飛んだ。釜に突き刺さるようにドポンと落ちたが、すかさず岩にへばりつき、トカゲのようにじりじり這い上がる。日本隊の怒声が四散する中、トカゲの手が水流に抗いながら伸びていった。ニンゲンにもこういうことができるのだ・・・。斜瀑で水圧を受けながら進んでいくトカゲ。泰山のイボ付き手袋が、温泉成分が付着しサンドペーパーと化した岩を捕らえていたのだ。頭上までも覆う暗峡のゴルジュをついに抜けたのだ。30mの硫黄分たっぷりの温泉滝の足下に達した。地図の目標点に達したのだ。これで溯渓は成ったと思った。温度はぬるく、ちょいっとがっかり。前方に目をやりゴルジュの存在を感じ取った瞬間、ここに浸りに来る人がいるはずがない、この温度で入浴なんてできない、地図の温泉とは違うのだ。そうはっきり意識した瞬間、神様にさっきのつぶやきを聞かれてしまったと思った。側壁も左右に開き、高度を急激に下げていた。なのに、まだあった。深い釜と屈曲した滝。水流がきつい。水線突破は一見して不可能だ。奇跡的に足が着くかも淡い期待を抱いて、ブンショウが様子を見に行った。が、淡い期待は水と共にあっさり流れた。高巻きだ。地図通り低い右岸を巻こうとし、ロープまで出したがあと一歩がダメ。垂直のきつい笹ブッシュで荷揚げができないのだ。1時間ぐらいロスし、戻って左岸を大きく巻く。鞍部を乗っ越し、下降していく。前方に温泉の噴気を発見する。泰山はえらくうれしそう。今度こそ、最終目標の温泉だろう。上に河原が見える。あと少し降りられるかもというところで採り頃のオオタニワタリを発見。緊張が解けていく。さらに下降を進める。先頭のブンショウの足が止まる。「ダメだー」と声が来る。懸垂1ピッチでも降りられそうにない高い側壁。そして狭い沢筋に大きな釜とCSが次々と並んでいた。後続にあわててトラバースを指示。泰山は足取りが重く遅れがちになる。疲労もたまっているんだろう。ブンショウとキノポンが先行し、下降点を探る。薄暮に包まれだした中、下は見えないゴルジュ。噴気を目印に、ブンショウが空身で懸垂トライ。支点は根は張っているが幹は半涸れの折れた10cmほどの灌木。ぎりぎりまで高度を下げたかったためだ。空中懸垂だが、温泉噴気にたどり着けたようだ。キノポンがブンショウの荷物も担いで降りる。キノポンが空中懸垂に入ったのだろうか、支点の木がミシッと音を立て震動が足元に響いてきた。荷物を合わせれば140kgにはなっているのだろう。それを支えられる腕力も足場も補助支点もない。「キノポン死ぬなよ」と念じることしかできなかった。「OK」のコールがこだました。懸垂の捨て縄を根元ぎりぎりにセットし直し、泰山が下降。これもミシッと音を立てた。オレはどうなるんだ。張ってそうな木の根にシュリンゲをほどいてバックアップを取る。しないよりはマシだ。この懸垂ほど嫌だったことはない。空中懸垂に入った瞬間、セオリーを無視して懸垂スピードを上げた。あと3mになったとき、生きているなってふと感じた。とうとう温泉にたどり着けたのだ。熱い湯が流れていたが、その温泉は整地が必要な、極楽とはほど遠いものだった。薪の多い少し上部で幕とした。今日も残業だった。暗い中の幕営準備。極楽温泉を捨てきれない私は15分の持ち時間で上に温泉を探しに行ったが徒労に終わった。夕食を終え、一息ついたら21時を過ぎていた。満月が出てきた。最後の酒を回し飲み、ツェンコン(成功)をかみしめる。酒はすぐに尽きた。温泉に行ったブンショウを追いかけるようにして二人で温泉づくり。湯上がりは汗が噴き出るほどだった。
朝、泰山とキノポンが温泉に行く。温泉で疲れなきゃいいんだけどと少し心配になる。大きく水を減じた萬里橋渓をあとにする。泰山のピッチが上がらない。このままでは林道にもたどり着けないかもしれない。荷物を3人で取ると一気にはかどった。昼過ぎ、林道に這い上がる。ひどい藪だ。時間切れの頃、決めたテン場は薪もあり水も近かったが、ヒルがいっぱいだった。いやがる泰山の願いを受け、進める。まあまあのテン場もあったが、水の多い支流の音が聞こえている。200mぐらいか。足もつかない藪で苦闘。マリちゃんのお母さんのヒステリーだ。
藪の中が真っ暗になり始め、ギブアップ。バックしてヒルトンホテルをテン場とした。山ダニのおまけ付きだった。しぶとくたき火を起こした。明日は下山だ。ビールを願って食糧放出。
今日もひどい藪。大崩壊地で大きく巻きすぎ、時間をロスト。林道で高砂族に出会う。今日の下山はどうやら難しそう。途中、高砂の罠にかかった山羊を見る。針金が首にしっかり掛かっているようで、我々が近づくほど暴れて、針金が食い込む。かわいそうだったがこれが現実。他の命の犠牲で生きている生々しい現実。高砂の言ったとおり、結局、届かない。工寮を探したが見あたらない。4℃と気温も低く、寒さに震える。読図はジャストなはずなのになのに。高砂の真新しい幕場跡を使わせてもらう。泰山はたき火から離れなかった。レーションも尽きていたようだ。大きなたき火で生き返る。芯まで冷えていた。
出発前に工寮探しに少し戻る。地図とは反対の左に、ブッシュに埋もれるようにしてあった。地図と反対で見落としたのだ。順調に林道を降りる。確かな林道に出て安堵する。あと少しで地図の行車終点。ところが行けども行けども着かない。結局、地図上の終点から8km歩かされた。先の見えない歩きに根性が鍛えられた。下山は昼過ぎだった。ヒルには結局20カ所以上やられた。林道が32kmとは長かった。
予定日を使い、ぎりぎりで降りてきた私たちを、彰化の許さんと洪さんが来てくれていた。いつもいつも、ありがたいことだ。宿に着き、シャワーで汗を流し、夕食。餃子を食いたいと言い続けたブンショウの念が通じたのか、餃子が看板の店だ。ゆでた腸も旨かった。宿に戻るとキノポンは沈没。もちろん本番はここから。ウィスキーで乾杯。許さんにお茶を振る舞われる。その間も乾杯、カンパイ、かんぱーい。気づけばカラオケ屋に向かっていた。私は車の中で眠りこけ、知らなかったが、途中、運転する洪さんが、カラオケ屋を町の人に尋ねて下車した時、ブンショウも下車してフラフラ歩いたそうだ。そうとは知らない洪さんは、ブンショウを夜の田舎町に残地して出発。スーパーフリーソロになったブンショウはさすがに焦ったらしいが、町の人にカラオケまで歩いて15分ぐらいだと聞き、フラフラあるいていた酔っぱらいブンショウを、気づいた洪さんがピックアップ。無事、カラオケ屋に到着。私はカラオケ屋の前で、ひと吐きし、少し、すっきり。カラオケフィーバーをし、最後に表でもうひと吐きし、宿で撃沈となった。
台北に仕事で向かう泰山が私たちを車で乗せていってくれるというのでありがたく便乗させてもらう。彰化でおいしい餃子屋を2件ハシゴ。大魯公の見物や 美しい浜辺、清水大断崖の見所を案内までしてくれた泰山には言葉もない。多謝、多謝。
台北でいつもの登山店とおみやげを買い、夕食後、五星ホテルに入った。臭豆腐が食べたいというブンショウとフルーツのほしい私が近くの夜市をぶらつく。ホテルで軽い反省会をして就寝
荘さんに空港まで送っていただく。いつものことながら本当にありがたい。手続きを済ませた我々は空港ロビーでも昨夜の続きの反省会をし、成田と関空へと、機上の人となった。